コーヒーに憑かれた男たち [読書]
コーヒー屋の「御三家」
カフェ・ド・ランブル 関口一郎
カフェ・バッハ 田口護
もか 標交紀
それぞれの観点からコーヒーの本質を語っています。
・完全無欠のコーヒーはよいことなのだろうか?
・まずは「よいコーヒー」を作ることを優先させ「うまい・まずい」の判断はその後でいい。
・コーヒーは複雑な苦しみを特徴とした飲み物である。子供の飲み物ではない。
生きることがきれいごとでは済まないことを知った大人の飲み物である。それがいい。大人が生きていく上で必要な認識など、苦みからしか生まれてこないのである……
・・・と言う風に、
コーヒーに限った話しではなく、コーヒーの極みから物事全てにおける本質が見えてくるような内容と思います。
この本を読んだ後に、焙煎豆を引いて飲むとまた味わいが違ってくるでしょうね。
豆の自家焙煎からやりたくなってきます。
満足度:★★★★★
コーヒー好きの私にとってかなり堪能した本です。
(コーヒー豆の自家焙煎を再開しました)
ただコーヒーのことだけでなく、あらゆる物事の本質にも触れられているように感じました。
毎日飲むものとして「完全無欠のコーヒーはよいことなのだろうか?」の疑問は成る程と思いました。
むしろ完全でない所に個性や人間臭さがあり飽きがないことなのかと。
「よい・わるい」と「うまい・まずい」はそれぞれが独立した判断基準で同意義ではないとあります。
ここで言う「よいコーヒー」とは
1 「欠点豆」がハンドピックによって取り除かれているもの
2 煎りムラや芯残りのない「適正な焙煎」がほどこされたもの
3 焙煎したての「新鮮」なもの
を指し、飲んでもらう側にとって極めて良識的なことであります。
”
「わるいコーヒー」をうまいコーヒーと評価するのは正しくない。だから味覚は正しく訓練されなくてはいけない。(中略)だから間違った方向に進んでも、いつだって元のスタートラインに立ち戻ることができる。
劣化したコーヒーばかりを飲んでいたら味覚がだんだん「わるいコーヒー」の味に馴致される。
人間の五感は磨けばいくらでも研ぎ澄まされていくものだが、それには正しく磨くと言う条件がつく。
そうでないと、ニセ物が本物と認識してしまう。
まずは「よいコーヒー」を作ることを優先させ「うまい・まずい」の判断はその後でいい。
”
コーヒーは嗜好品であることを考えると、これに共通して
娯楽物(小説、ドラマ、漫画、アニメ、ゲームなど)にも当てはまることではないのかなと思います。
そもそも娯楽には何が正しいとかの基準がないので(世間的には結果として勝ったものが正しいと言うことになるが)、
まずは「よいもの(正しいと信じられるもの、相手の為になること)」を優先させて、
「うまいもの(そのように感じさせる)」にしていくことではないのかなと。
そして、その「よいもの」は自分自信が決めて行くことなのだと思います。
「よいもの」は目的であり、「うまいもの」は手段って所でしょうか。
(正解を求めるのではなく、正解を自分自身で決める)
ある漫画の台詞にあった
「自分が正しいと信じることを成せ」は
ずっと心の支えとなっており、
今回読んだこの本はその土台を更に固めてくれたように思います。
それにしても、この本でここまで深く考えてしまうとは・・・
もう少し頑張って行きますか(笑)
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)
- 作者: 臼井 隆一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1992/10
- メディア: -
2009-05-30 02:38
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